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映画『硫黄島からの手紙』から
平成19年1月16日(火)

 昨年暮れに映画『硫黄島からの手紙』を観た。なんとなく興味もあったが、日本人として観るべきものであるような気がして映画館に出向いた。
 戦況が悪化の一途をたどる1944年6月。アメリカ留学の経験を持ち、米軍との戦いの厳しさを誰よりも覚悟していた陸軍中将・栗林が硫黄島に降り立った。着任早々、栗林は本土防衛の最期の砦である硫黄島を死守すべく、島中にトンネルを張り巡らせ、地下要塞を築き上げる。そんな栗林の登場に、硫黄島での日々に絶望していた西郷ら兵士たちは希望を見出す。だが、一方で古参の将校たちの間で反発が高まり…。
 
 アメリカ軍上陸から1ヶ月強の戦いで、日本軍は20,933名の兵力のうち20,129名が戦死した。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害で、大東亜戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦闘であった。絶対的な兵力不足で勝てる見込みのない戦闘の様子を見て、兵士達はいかなる思いで戦闘に望み、どのような形で自らの戦闘心を奮起させていたのかと思うと、単なる『お国のため』だけではなく、内心は、諦めと、戦わねばならないと言う職務に対する使命感、家族の為に生き残りたいと言う思いであったように感じた。

 観た後に自分の中に残ったものは、『むなしさ』であった。勝てる見込みのない戦いに挑まねばならなかった当時の兵士達への同情と、二度とこのような事を引き起こしてはならないと言う思いがした。
 
 当時、日本国内はどのような様子であったか。この地域ではどのような暮らしをしていたか。女子の場合、尋常高等小学校を卒業すると、工場へ働きに行く子、女学校に行く子(裕福な家庭)、家に残って百姓をする子に分かれる。家に残り百姓をする子は、火曜日、金曜日は『青年学校』に出かける。午前中は国語、社会、家庭科の勉強、午後は農業及び戦闘の訓練。国内にいながらも、敵の襲来に備え、竹槍を担ぎ、モンペの上にゲートルを巻いて藁を巻いた松の木に向かって突進する。国内を護る人を‘銃後’と言った。ほぼ女性である。男子は満20歳になると徴兵検査を受ける。検査後、体力に応じて、‘甲種’、‘乙種’、‘丙種’に分けられ、甲種合格者から徴兵されていく。国内は食料増産の指示が出され、主に芋類を増産、軍馬の餌用に草を刈りお国の為に納めてもお金はもらえず、配給の生活を送る。B29の飛行音が聞こえると、山に登る。この辺りでは防空壕ではなく、民家の少ない山の木の下に隠れた。残された人々は『銃後の護り』に徹していた。
 
 日本は国が小さく物資も少ないのに、あのような大きな戦争を引き起こした事は間違えであったと言う。今を生きる私達には全く想像がつかない世の中である。そのような時代を生きた人々は今やおおかた年寄りである。
 
 時代と共に薄らいでいく戦争の悲劇を、忘れない為に経験者から話しを聞く大切さ、本、映画等を観て間接的にも戦争を知る義務が現在を生きる私達にはある。
 
 年寄りは、「戦争を乗り切ったで俺んたぁは強いんやぞ」と言うが、全くその通りであり、尊敬の念を持ち続けたいと思う。 


文枝
by npskobe | 2007-01-16 09:05
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